猫の不在/我が家

所用があってここ数日は実家に帰っている。実家はマンションの五階で、ベランダが広い。場所柄、視界を塞ぐ建物も周りにないので、よく晴れた朝には遠くに富士山が見える。夕焼けも綺麗で、夏にはベランダにキャンプ用の簡易チェアを出してビールを飲むのが好きだった。昔に比べれば減ったけれど、今も母がそこで植木をたくさん育てている。カポックやアロエやハイビスカス、サボテンやジャスミン、あと名前のわからない草木がいくつか。わたしが今住んでいる部屋は、日当たりはいいけれどベランダが狭い。次に住むなら絶対にベランダが広いところがいいなと実家に帰るたびに思う。あと風呂トイレ別。できればペット可。そんな条件、挙げだしたらきりがないけれど。

実家には今、母と三匹の猫がいる。二匹の姉妹と、一年遅れて拾われてきた一匹。もうみんなおばあちゃん猫になりつつある。彼女らの前に、我が家にはわたしが生まれる前から飼われていた猫がいたんだけれど、その猫はわたしが小学生のときに、十八歳という大往生で亡くなった。生まれてからほとんどずっと、猫がいる家に暮らしていたせいか、一人暮らしをしたときに一番違和感を感じたのは、猫がいないことだった。当たり前に人間が不在であることよりも、当たり前に猫が不在であることの方が、慣れるまでに時間がかかった。わたしは愛猫家というわけではない。猫のことは好きだけど、たまらなく好きというわけではない。一緒にいても必要以上に撫でまわしたりはしないし、わりと放っておいてしまう。それでもただ同じ空間に、視界の片隅に、常にうろうろしたりすり寄ってきたり寝息を立てたり、「当たり前にいた」生き物が、「当たり前にいない」ということが落ち着かなかった。その違和感は、未だに完全には消失していない。

たとえば家族であっても人間だったら、そこに「いる」ということを、どこかで意識しながら暮らしていたんだと思う。でも猫は、「いる」ということを意識してもいなかった。だから「いない」ということが、むしろ不自然に感じられたのだと思う。さびしいとか恋しいとかではなくて、不自然。ある種の欠落。何かが違う、物足りない、そういう違和感。

とは言ってもまだ実家を出てから一年半ほどしか経っていないから、そのうちこんなぼんやりした違和感は忘れてしまって、やがて思い出しもしなくなるのかもしれない。一方で、まだ出てから1年半しか経っていないのにもうすでに、ここは我が家ではないのだという感じは、ほとんど確信みたいにしてわたしの中にある。じゃあ今の部屋を我が家と思っているのかといえばそうでもなくて、仮住まいという言い方が一番しっくりくる。とりあえずの、仮の住み家。

いつかまたわたしに、我が家と思える場所はできるんだろうか。そのときそこには、やっぱり猫がいるんだろうか。