世界/生活

ほんの数カ月前までの世界とは何もかもが変わってしまったと感じる。日々の報道は悲しみと怒りの感情ばかりをかきたてる。わたしの憂鬱さは状況をすこしも改善したりはしないことをわかっているから、できるだけニュースから離れるようにしても、あらゆるルートでそれは耳から目から入ってくる。耳をふさいで目を閉じると、逃げていていいのか苦しんでいる人がいるのに他人事でいいのかと、もう一人の自分に責められる。そしてこの一連の流れは誰のことも救えない。
結局のところわたしにできるのは、生活を、すこしでも前向きに粛々とやっていくことくらいなのだ。
世界中で戦うすべての人が、どうか一日でもはやく家族や友人や恋人と、キスをしてハグをして、同じ食卓を囲んで笑いあい、あたたかいベッドで安心して眠ることができますように。

夢に出てくる人/乗換駅

もう会うことはないし会うつもりもない、かつてとても大切だった人の出てくる夢を見た。
彼は生きていて、何なら職場が私の住む町からそう遠くはないことを昨年偶然知ったので、会おうと思えばおそらく会える。しかし会うことはない。会わなくなってからもう十年以上の時が経つ。連絡先も今は知らない。
彼の出てくる夢を私は定期的に見る。いつも彼はすこしだけかわいそうな境遇にいる。それはかつての彼が、かわいそうな境遇になったときに私に会いにきていたからだと思う。
でもそれは私も同じだった。私たちはそれぞれのかなしみやさびしさやどうしようもなさを抱えながら、それを透けるほど薄い布で覆った状態でふざけ合っていた。そういう気持ちをもしもきちんと分かち合えたなら、私たちは例えば恋人みたいになったんだろうかと今でもときどき考える。でも今も昔も答えは同じで、私たちは恋人にはなれなかったし、万一なっていても、それぞれの乗換駅を知っている者同士の戯れにしかならなかった。
仮に一つの乗換駅をやり過ごしても、私たちは何度でも乗換のための駅につく。一つをやり過ごしても、私たちはお互いに必ずどこか別々の駅で降りなければ目的地には着けなかった。
どこへも行けないのだ。どこの地点から乗ったとしても、私たちは同じ列車には乗り続けていることはできなかった。それにそもそも、私たちはお互いに恋愛感情のようなものを持っていなかった。そして私は友情を信じていないから、あれが友情だったとも思っていない。それでもずっと一緒にいられればいいのにと思っていた。一緒にいられないだろうということがわかっていたから。

私が知らないところで、もう私とは二度と会えない場所で、彼に幸せでいてほしいと思う反面、幸せでいてほしくないとも本気で思っている。
彼の夢にも私が出てくることはあるだろうか。すこしだけかわいそうで、透けて見えるかなしみを隠そうともせず強がりながら、ふざけた話ばかりをする私が。

映画鑑賞/1月はしんどい

最近またすこしずつだけれど色々な映画を鑑賞できるようになってきた。
一昨年体調を崩してから、過激だったり悲惨だったり深刻だったりするような映画を一切見ることができなくなっていて、厳密に言うとそれは映画だけじゃなくて本や音楽もなんだけれど、映画がいちばんだめだった。そもそも内容問わず映画館には行けなくなってしまっていたし。(そしてまだ行っていない。たぶんもう平気かなとは思うけどわからない。)
映画を見たり見て考えたりすることが好きだった。過激だったりド派手だったりする映画も好きだった。だからすこしずつだけれどまた見ることができるようになっていてうれしい。
最近のヒットは『ラッキー』という映画。これは別に悲惨でも過激でもないけれど、いい映画を見たなと思った。ヴィム・ヴェンダースが撮るような画が好きな人はぜったいに好きだと思う。ハリー・ディーン・スタントンの遺作。

毎日気圧や気温の差が大きいせいか今月はしんどい日も多いけれど、できるだけ好きなものや好きなことに気持ちを向けながら暖かい季節を待ちたい。

暖冬/ロキソニン

今年は暖冬だというニュースを見たのはもう一ヶ月くらい前になると思うけど、たしかに言われてみれば例年よりも寒さがゆるいような気がする。もう一月なのに雪が降りそうな気配もないし、外に出たときに風に吹かれて思わず「ぅゔっ」みたいな奇声を発することもない。わたしは寒いのがほんとうにほんとうに苦手なので嬉しいけど、例年とは違うということは何かしらいつも通りにいかないことが起こり得るということで、それが困りごとであるという人も少なからずいるんだろうなとは思う。

年末から正月にかけて謎の首痛があり、最終的にはひどい頭痛が起きて参ってしまった。過去経験したことのないくらいの頭痛で起きてても辛く、かといって寝ることもできずで、右耳の後ろ側が脈にあわせてとんでもなく痛んだ。え、これもしかしてやばいやつ?死ぬの?と思った。夜、隣で寝る恋人に「もしわたしが急変したり息をしていないことに気づいたら、救急車の人には右後頭部が痛んでいたことを伝えてください」と伝えた。急変もせず息もしていたので呼びませんでしたが……。
耐えかねて年末ぎりぎりに病院へ行き、CTやレントゲンも撮ってもらったのだけど原因わからず。痛み止めにロキソニンを処方してもらったのでそれを飲みつつ、Amazonで買った首のコルセットをはめて安静に過ごしていたらいつの間にか快癒した。何だったんだ。

しかし何だったんだとすませるにはあまりにも痛かったので、最近外出の際は出先で急に痛く成った時のためにコルセットを持ち歩いている。余談だけれどこのコルセットを装着し、しばらくしてから外すとヘアスタイルがめちゃいい感じに仕上がる。

そんなこんなではあったけれど、正月に実家で恒例の書き初めは敢行。今年の目標は「鉄人」です。メンタルもフィジカルも強くたくましくなろうね。今年もがんばって生き抜こう。

仕事のペース/残り二週間

また日が開いてしまった。

フリーランス一年目ということもあるけど、仕事のペースがまだいまいちつかめない。
仕事、無いときは無いけれど有るときは有る、というのは業界あるあるなんだろうか。有るときはワッと忙しくなって他のことが何もできなくなる。
とりあえず今はきた仕事をできる限り全部受けようというつもりでやっているというのもあるだろうけど、来年はもう少しペース配分を上手にできるようになるといいな。

クリスマスもお正月もたぶん仕事をすることになる。仕事自体は面白いので、(進行スケジュールが辛いだけで)別段苦ではないなと思えているのが救い。今のところ。

今年、特別やり残したことはないと思うけど、できれば年を越す前に何本か小説を書けるといい。読みたい本もある。
2019年も残り二週間ですね。

まだ東京の秋を見つけていない/長袖

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更新をおさぼりしているうちに秋になってしまった。

家で飲むコーヒーはホットになり、今日から長袖を着ている。さむい。

 

Webで公開している小説の筆名でnoteをはじめた。

まだ何を書くかとか、どういう風に使っていくかは決めていない。小説未満の文章を書いていくつもりではあるけど、ちょっと模索中。
この筆名はWebに上げる短編ユーモア小説専用のもので、かなり適当につけた名前なんだけど使っているうちに愛着が出てきた。

まあ名前ってそういうもんか。

 

先月の中ごろからつい先週までパリに滞在していた。そのときのことや写真をこちらに順次上げていくつもり。noteとちがってこちらでは変わらずごくプライベートなブログを続けていく予定。

写真は街歩きの休憩中に入ったカフェで飲んだオランジーナ。オランジーナ、本国だからか?何だかやけに美味しくて、滞在中よく飲んでいた。

五月の薔薇/アヴェ・マリア

この季節はそこかしこで薔薇が咲いていてうれしい。

一輪一輪いかにも華やかなやつも素敵だし、モッコウバラみたいな小ぶりなやつが一斉にわっと咲いているのも良い。そういえばモッコウバラには棘がないということを最近知った。
もしもいつか庭のある家に暮らすことがあったらモッコウバラを植えてみたい。
ふつうの薔薇より手入れは楽だと聞くし、ふつうの薔薇より気取っていなくて庭に植えるには好もしい。もちろんふつうの薔薇でもいいんだけれど、わたしの庭にあったら何だかそこだけ浮きそうな気がする。
わたしの庭には何か果物の木を一本、それからクチナシ金木犀のような匂いのいいやつ、あとは花壇みたいにしてチューリップだとかヒヤシンスだとか春に咲くような球根系を植えてみたい。ごちゃごちゃしすぎているかな。でもとにかく果物の木とクチナシは絶対。庭を持つ予定はないけれど。

薔薇といえばわたしの通っていた幼稚園は学年分けに花の名前がつけられていた。
年少さんはバラ組、年中さんはキク組、年長さんはユリ組だった。
教会の幼稚園だったからかもしれない。
園庭にはマリア様の像があって、わたしたちは毎朝そこでご挨拶をしてからじゃないと園舎には入れなかった。週に一回は礼拝があって、園内にある教会へ行った。わたしは教会内の薄暗さとか静けさとか、それから礼拝堂に掲げられている十字架に張りつけられたキリスト像がこわかった。礼拝で歌う、『アヴェ・マリア』の歌詞をずっと間違えて覚えていた。「アヴェマリア」と歌わなくてはいけないのに、「雨は嫌」と歌っていた。何の疑問もなく歌っていた。雨は好きでも嫌いでもなかった。