しんどさに慣れる/ハムスターの同意

毎日ほんとうにしんどい。一日が60時間くらいに感じる。ついこの前まで当たり前にできていたことができなくなってしまったこと、それによってこれまで楽しみだったことがこれからの苦しみに変わってしまったこと、何よりそういうすべてが外的要因からそうなっているのではなくて、自分に理由があるのだということがつらい。

でも毎日こんなにしんどいけれど、これからも一生こんな風にしんどくいられるわけではないということを、わたしは経験によって知っている。人は慣れる生き物だ。良くも悪くも、どんな状況にも心境にも、人はかならず慣れていく。だからこのしんどさにもいずれ慣れる。慣れてしまえばこっちのものだ。その時は見てろよこの野郎という気持ち。だから今は耐えるしかない。折れないように、屈しないように、ひたすら辛抱する。やれることをやる。やり続ける。辛抱しながら挑戦する。挑戦し続ける。それが肝要。好転のチャンスはかならずやってくる。今日はこんなにしんどくたって、明日はどうだかわからないんだから。

「明日はもっといい日になるよね」

これはとっとこハム太郎というアニメで、ハム太郎の飼い主の女の子が決まって最後にいうセリフ。無邪気といえば聞こえはいいけど、いかにも都合のいい、あまりにも楽天的で、無責任なセリフ。でもあれは真理なのかもしれない、とも最近思う。それを自己完結ではなくて、他者(ハムスターだけど)に対して言ってのけてしまうところもいい。いかにも漫画的だと白けてしまう一方で、その行為によってあのセリフの強度は増す。まだ来ていない、だから誰も知らない明日という絶対的な可能性。そのことの断定と、促される同意。

明日はもっといい日になるよね。

その通り。

猫の不在/我が家

所用があってここ数日は実家に帰っている。実家はマンションの五階で、ベランダが広い。場所柄、視界を塞ぐ建物も周りにないので、よく晴れた朝には遠くに富士山が見える。夕焼けも綺麗で、夏にはベランダにキャンプ用の簡易チェアを出してビールを飲むのが好きだった。昔に比べれば減ったけれど、今も母がそこで植木をたくさん育てている。カポックやアロエやハイビスカス、サボテンやジャスミン、あと名前のわからない草木がいくつか。わたしが今住んでいる部屋は、日当たりはいいけれどベランダが狭い。次に住むなら絶対にベランダが広いところがいいなと実家に帰るたびに思う。あと風呂トイレ別。できればペット可。そんな条件、挙げだしたらきりがないけれど。

実家には今、母と三匹の猫がいる。二匹の姉妹と、一年遅れて拾われてきた一匹。もうみんなおばあちゃん猫になりつつある。彼女らの前に、我が家にはわたしが生まれる前から飼われていた猫がいたんだけれど、その猫はわたしが小学生のときに、十八歳という大往生で亡くなった。生まれてからほとんどずっと、猫がいる家に暮らしていたせいか、一人暮らしをしたときに一番違和感を感じたのは、猫がいないことだった。当たり前に人間が不在であることよりも、当たり前に猫が不在であることの方が、慣れるまでに時間がかかった。わたしは愛猫家というわけではない。猫のことは好きだけど、たまらなく好きというわけではない。一緒にいても必要以上に撫でまわしたりはしないし、わりと放っておいてしまう。それでもただ同じ空間に、視界の片隅に、常にうろうろしたりすり寄ってきたり寝息を立てたり、「当たり前にいた」生き物が、「当たり前にいない」ということが落ち着かなかった。その違和感は、未だに完全には消失していない。

たとえば家族であっても人間だったら、そこに「いる」ということを、どこかで意識しながら暮らしていたんだと思う。でも猫は、「いる」ということを意識してもいなかった。だから「いない」ということが、むしろ不自然に感じられたのだと思う。さびしいとか恋しいとかではなくて、不自然。ある種の欠落。何かが違う、物足りない、そういう違和感。

とは言ってもまだ実家を出てから一年半ほどしか経っていないから、そのうちこんなぼんやりした違和感は忘れてしまって、やがて思い出しもしなくなるのかもしれない。一方で、まだ出てから1年半しか経っていないのにもうすでに、ここは我が家ではないのだという感じは、ほとんど確信みたいにしてわたしの中にある。じゃあ今の部屋を我が家と思っているのかといえばそうでもなくて、仮住まいという言い方が一番しっくりくる。とりあえずの、仮の住み家。

いつかまたわたしに、我が家と思える場所はできるんだろうか。そのときそこには、やっぱり猫がいるんだろうか。

秋のピクニック/水辺

自宅から自転車で20分ほど走ったところに大きな公園があり、あるのは知りつつなかなか方向的に足を伸ばす機会がなかったその公園に、昨日ようやく行ってみた。天気も良くて、秋のピクニックには最適の日。

 

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 想像以上に広大で、すてきな公園だった。東京の住宅街の中にこんな場所があるなんて、なんだか変な感じだった。ただ緑がたくさんというのじゃなくて、水辺もそこかしこにあって、水鳥や釣り人がいて、それも良かった。うすうす気づいていたけれど、わたしは水辺がとても好き。川、池、湖、沼、滝なんかも。海はそうでもないけれど。

実家からもそれほど離れてはいないので(とはいえ近所と言うほどの距離にはないが)、母によれば小さい頃に何度か遊びに来たこともあるらしい。しかし例のごとく覚えていない。妹は覚えているかもしれない。わたしは子供時代の記憶が極端に少ない。なぜか昔から。だから日記を書くようになった。

ウェルカムオータム。瞬きする間に過ぎ去ってしまう美しい季節。

南天/冬支度

駅までの道、南天の実を見つける。同じ通りの数メートル先には大きくて立派な柿の木があって、その木にも重そうな実がいくつもいくつもぶら下がり、日に日に良い色になっている。だけど烏が見向きもしないところをみると、あれは渋柿なのかもしれない。

これから寒くなっていくばかりだというのに、目に入る秋はどれも暖かい色をしている不思議。東京では木枯らし一号が吹いて、朝起きたら窓に結露ができていた。ベランダに出しっぱなしにしているカポックを、中に入れてあげた方がいいのか迷う。メダカたちは動きが鈍くなってきたけど、まだ食欲はあるみたい。今年は新しい手袋がほしいなと思っている。それぞれの冬支度。

夢/片思い

一昨日、昔好きだったひとが夢に出てきた。

わたしはそのひとのことを結構長いこと好きで、いわゆる思春期の恋心のほとんどをそのひとに捧げたといっても過言ではない。片思い。相手から見向きもされないのにそれだけ長いこと好きでいられたなんて、一途と言えば聞こえがいいけど、執念深いというか妄想たくましいというか、感心するやら呆れるやらなんだけど、当人はいたって深刻だった。別々の学校になってしまい、ほとんど会えなくなってからはますます深刻だった。ただでさえ彼が最高の男の子だと思っていたのに、会えない時間がわたしのなかの彼の像をどんどん美しく完璧なものに磨いていく。そうしてできていく彼の像が、自分でつくりあげた虚像にすぎないということはさすがにわかっていて、でもわかっていてもその虚像から逃げられなかった。

今は何をしているのか知らない。もう10年以上会っていないし、わたしも彼も地元とのネットワークが希薄なせいかSNSにも出てこない。

夢の中でも、わたしは彼に片思いだった。席替えで隣の席になって、ちょっとだけおしゃべりをした。現実では一度も隣の席になったことなんてなかった。わたしの言ったことに笑う顔を見て、好きだな、と思った。そういえば、長い片思いのあいだにも、両思いの夢を見たことは一度もなかった。元気でいてほしい。

朝/7・11

血圧が低いので朝に弱い。かといって夜に強いわけでもないけれど、如何せん朝は何をするにも億劫で仕方がない。起き抜けは食欲もないし、でも家を出るぎりぎりまで眠っていたいから、平日はたいてい何も食べずに出かけることになる。

何も食べないかわりに飲み物だけ飲む。余裕があるときは白湯を沸かして飲むけど、慌てているときは水。それから同じコップに甘酒と豆乳を入れて混ぜてから飲む。豆乳はたまに飲むヨーグルトに変わることもある。単純に味が好きなのと、何となく栄養がありそうなのと、あと簡単にお腹に入れられるから、ここ一年ほどわたしの朝の定番になっている。コーヒーは職場についてから飲むから家では飲まない。セブンイレブンのコーヒーは美味しい。アイスの方が好きだけど、ホットもまあまあいけると思う。

コーヒーのにおいをかぐと、学生時代のアルバイトを思いだす。喫茶店。平日の雨の昼間なんかは暇なことも多くて、そういうときはフィルターを折ったり、おしぼりの補充をしたり、カップの漂白をしたり、陳列棚に置かれた豆の袋の空気抜きをしたりしていた。豆の袋の空気抜きをするときは、その匂いをかぎたくて思いきり息を吸い込んだ。そのたびに、うっとりとした気持ちになった。店長は口数が少ない人だったから、二人で店番のときはたいがいどちらも黙りこくって、雨の音だけが聞こえていた。わたしは雨の日のそういう店番がとても好きだった。

今の職場も沈黙の時間がほとんどだけれど、あのときとは空気が全く違うから、沈黙といっても色々だなと思う。今の職場で大きく息を吸いこむのは、そうでもしないと呼吸がうまくできないときだ。

あの店があった場所には、今はセブンイレブンが建っている。

楽器/強さ

楽器ができたらいいのにと思う。しょっちゅう思う。でもわたしは楽器ができない。ほとんど同じような理由で、歌が歌えればいいのにと思う。わたしは歌は歌えるけれどもとても下手。歌が上手に歌えればいいのにと思う。ダンスでもいい。思うまま思うようにステップが踏めたらいいのに。

生きていくうえで、生活していくうえで、自分で自分を慰めてあげられる方法を、持っているひとはとても強い。わたしが憧れているのは強さ。

楽器もできず歌も苦手、ダンスもできないわたしは、だから代わりに本を読んだり、文章を書いたりして暮らしている。慰められているのかはよくわからないけど気もちは紛れる。奏でたり歌ったり踊ったりできる人も、最中はこんな気持ちかしらと思う。知らないけど。

楽器ができたらいいのにという気持ちと、足が速かったらいいのにという気持ちは似ている。足が速かったらいいのにという気持ちと、やさしくなれたらいいのにという気持ちは似ているけれど違う。違わなければいけないと思う。強くなりたいね。