春になれば/スーパーブルーブラッドムーン

相変わらず毎日寒いけど、日だけは確実に延びている実感があるのが救い。冬の底、春の兆しの梯子がようやく降りてきたような気持ち。春になれば何もかもがいい方向にいくような、根拠のない思考。春になれば、春になれば、春になれば。

 

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先週の皆既月食スーパーブルーブラッドムーンという呼び名はなんだかあまりにも仰々しくて、それでいてお粗末で笑ってしまった。

それ以前、最後に月食をきちんと見たのは大学院にいた頃。研究室から見ていて、そのときに、「今後の人生で月食を見るたびに、わたしは今日のことを思い出すんだろう」と思った。そういう風に、その瞬間「思い出すんだろう」と予感したことによって、記憶に刻印されていく形式としての思い出。

予感は予言になり、予言は呪いになる。

チキンドリア/幽霊の夜

東京にも雪がつもった昨日、昼過ぎには退勤して、まだ空いている電車に乗った。十四時くらい、雪が激しくなりはじめた頃だった。自宅のある駅まで帰って、家のそばのカフェで熱いレモネードを飲んだ。体調の関係で、年末からカフェインを極力摂らないようにしている。コーヒー、大好きなので我慢できずに飲んでしまうこともある。今日はもう帰宅するだけだし、と一瞬迷ったけれど、こんな天気の日に飲んだら絶対に危ないと思い自制する。レモネードは甘くておいしかった。

 

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家の前の路。まだ雪がつもり始めたころ。大雪になる前にと、みんなが慌てて帰宅しているのを映すみたいな足跡がおかしかった。遠目から見ると魚の群れが上っていく小川の絵みたい。

 

 

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夕方にはほとんど吹雪くみたいに降っていた。夕焼けの色も雪の白さでわからない。

写真を撮ればよかったと心底後悔したけれど、真夜中にそっとカーテンを開けて見た、しんしんと雪のふりつもる、真っ白な街の景色はとてつもなく綺麗だった。あかるく静かで、こわいくらいだった。もしも幽霊が出るのなら、きっとこんな晩なんじゃないかと思った。

 

 

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夕飯にはホワイトソースをたっぷり作り、チキンドリアを拵えた。ホワイトソースは小分けにして冷凍しておくと便利。

むかし聞いた歌で、歌詞の中にドリア(チキンでなくてエビだったけど)が出てくる歌があり、わたしはそれをなぜかずっと雪の日の歌と記憶していて、だからか雪が降るとむしょうにドリアが食べたくなる。でも去年だったか一昨年だったか、ふと思い出してその歌を聞いてみたら、全然雪なんて出てこなくて驚いた。別段好きな歌というわけでもなかったし、歌っているのも好きなバンドというわけでもなかったから今まで聞き返すことがなかったけれど、いったいどうして雪とこの歌をわたしは結び付けたんだろう。

 

 

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今朝。そうそう、これが東京の雪。この世ならざる景色はたったの一夜、明ければひどく現実的な日常が、当たり前の顔をしてやってくる。

チューリップ/『ムーンライト』

花屋にもうチューリップが出ていて、まだまだ遠いと思っていた春の背中が見えてきたようで嬉しくて、思わず一輪購入した。

チューリップの可愛さは大人になってからわかった。昔はそこまで好きじゃなかった。色のわりにはそっけない花だなと思っていたから。

 

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目が覚めたとき、ちょうどそこだけ朝日が当たって、額に入れられたみたいになっていた。

花を買うのは好きだから、人にも自分にもしばしば買うんだけれども、考えてみるとこの冬は、あまり部屋に花を飾っていなかった。精神的にもこの冬はとてもバランスが悪かったから、そこまで気が回っていなかったんだろう。でもバランスを整えるためにも、花は必要だったのかも。

 

先日、2018年一本目となる映画を鑑賞した。昨年度アカデミー賞受賞作。いじめ、貧困、差別、ドラッグ、同性愛とかなり重いテーマを一挙に扱っているやつだったけど、それらについてメッセージをがんがんに飛ばしてくるタイプの映画じゃなくて、ただそうしたものをあるがままに伝えようとしているという風な物語に好感が持てた。映像や音も良くて、物語と直接結びつかない、むしろ主人公の心情をまるで無視しているようなよく晴れた空とかやわらかい日ざしとか、おだやかな波の音とか、そういう全てによって過酷なはずの物語が静謐で美しいものになっていた。美しいものになっていた、というのは美化されていたというわけではなくて、むしろこの映画はそれらが美化されていないところに美しさがあって、その美しさはとても尊いもののように感じられた。

人生にタラレバは通用しない、だから現実には多くの場合救いがない。でもそんな中でも不意に月明かりに照らし出されるような美しい瞬間が必ずある。生きていくことはしんどいし、自分と向き合うことは苦しい。けど、せめてやさしい人間であろうと思えるいい映画だった。

去年は新しい映画を(わたしにしては)たくさん観た一年で、といっても相変わらず劇場鑑賞はできていないから、新しいというのは新作という意味ではなくてこれまで見たことがない、という意味。今年もその勢いのままたくさん見られたらいいなと思う。

正月休み/書き初め

年末年始の休暇も終わって今日から仕事。ちょうど一週間の休みだった。

祖母が上京しているので、大晦日と元日は実家で過ごした。大晦日にはみんなでカニ鍋を食べ、元日はお節とお雑煮、それから書き初めをした。もはや恒例となった我が家の書き初めは、各々今年の抱負と干支を書くのが決まり。いったん始まると皆ほとんど半日近いあいだ、ずっと筆に墨を滴らせ半紙を替えて書き続ける。習字なんて普段やらないからこれが結構疲れるんだけれども、それは集中して何かをつくりだしているとき特有のとても心地いい疲労感。さすがにそれだけ長いこと筆を握っていると、最初よりはずっと様になったものが最終的にできあがる。わたしの今年の抱負は「萌芽」。

年末年始の、みんなが浮足立っているような雰囲気が好きだ。一年が終わりまた始まる、なんて人間が勝手に決めた区切りなだけなのに、それに託けて家族で集まったり、いつもよりちょっといいもの食べたり、おめでとうと言い合ったり。12月31日が1月1日に変わったところで何か大きな変化があるわけなんてないのに、それでもそれを新しいものとして歓ぶ慣習。その慣習に意味なんて本当は無いとしても、その歓び自体がとても意味のあることだと思う。

みんなが健康で、明るく楽しい一年になりますように。

バナナスタンド/シュトレン

バナナスタンドを手に入れたので、気が向いたとき、主に朝、バナナを食べるようになった。 バナナは簡単に食べられるし、栄養も摂れている気になるし、いい果物だな。

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 それ以外には使い道のないものの持つ、完結した美しさといじらしさ。愛しい。

 

 

 

すこし前、学生時代の先輩の結婚式に招かれて名古屋へ行った。新幹線から富士山が見えた。名古屋駅、びっくりするくらい人が多くて、駅から街へ出ても混んでいて、驚いた。10年くらい前に行ったときは車だったから、駅に降りたのははじめてだった。

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 新幹線に乗車したのがちょうどお昼時だったので、ほんとうは駅弁が食べたかったけど、披露宴でお料理が出るしと思い、車内では東京駅で買ったこれを食べた。かじったとたんに鼻にバターの香りがぶわっと抜けておいしかった。中にはあんこと生クリームが入っていた。

 

 

 

家の近所につけ麺の有名店があり、知ってはいたけどまだ行ったことがなかったのでこの前の休みに行ってきた。

たぶんはじめて自発的に、食べ物の行列に1時間以上並んだ気がする。寒かった。でも行列に並ぶという行為を普段はめったにしないから、新鮮でちょっと面白かった。もうしばらくはいいけど。

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 麺がつるつる、スープはとろりと濃くて、具(チャーシューのやわらかさ、玉子の塩梅、一個一個きちんと焼き目のついたつくね、こまかにほぐされたメンマ)も丁寧に作られてる感じで良かった。店内も清潔でお店の人の感じも良くて、ラーメン屋さんだってやっぱりそういうお店の方が、どうしたって印象は良い。

 

 

 

クリスマスが近いので、シュトレンを買った。カルディで売っていた小さいサイズのやつ。

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しっとりたっぷり載せられた粉砂糖がきれい。中にはドライフルーツ、マジパン。シュトレンは、クリスマスに向けて毎日一切れずつ食べる、という風習がなんとも素敵だ。

およそあらゆる年中行事は食のためにあると思っている節があるので、その時に食べるもの、食べられるものを極力逃したくない。人生は短い。

スカイツリー/ただそこにあるもの

最近、晴れた日は自転車で通勤している。片道10キロ強の道のり、小さいのも合わせると川を三本超えて行く。方向的にスカイツリーに向かって走っていくことになるんだけれど、近づくごとどんどん大きくなるそれは何度見ても圧巻だ。都心部とちがってわたしが住んでいるところからスカイツリーのお膝元まではいわゆる下町と呼ばれるところだから、他に高い建物がほとんどないというのもあるんだろうけど、あの高さと風貌は、良く言えば存在感があり、悪く言えば浮いている。毎日通っていてもついつい見てしまう。帰りはまた逆側からスカイツリーに向かって走って行く。帰りの頃のスカイツリーはライトアップされている。色は基本的に青と紫の交互らしいけど、最近はスペシャバージョンで赤や緑になっている。

さっき調べてみたら、スカイツリーができたのは2012年だった。まだ5年しか経っていないのかとも、もう5年経ったのかとも思う。最初に見たときは、パワーパフガールズの街(タウンズヴィル)にありそうなタワーだなと思った。それもどちらかといえば敵キャラが住んでいそうな。そもそも、わたしは東京タワーがとてもとても好きなので、それとちがっていかにもシュッとした、冷ややかなあのデザインにあまり好感を持っていなかった。慣れたのか、今はそうでもないけれど。

でも例えばもしあれが生まれたときから建っていたら、と考えることがある。そしたらあれのある景色が、わたしの原風景になったりしたんだろうか。窓の外にいつも必ず見える大きな塔。住む人や店や建物が変わっても、ずっとそこにそびえ立っているもの。ただそこにあるだけなのに、誰かの記憶の中で欠かせない景色の一部になっていくこと。

スカイツリーができた年、はじめて入った会社を辞めた。それから大学院に行って、出て、今はまた働いているけれど、ここもそろそろ潮時かなと思っている。一か所に留まることがたぶん苦手なわたしは、ただずっとそこにあるものに、誰かにとってそのような存在になれるものに、ほとんど羨望みたいな憧れがある。

冬のけもの/スープ

今日みたいに曇った低い空の日に、ああ冬がきたんだなぁと思うのは、単純にその湿度や気温のせいだけじゃなくて、わたしが冬という季節にたいしてどうしても、暗さや静かさや憂鬱さのようなイメージを持っているせいなのかもしれない。

寒さに弱いのは、もうずっと昔から。寒い朝、寒い寒いと布団の中にうずくまると、自分が動物になったような気持ちになる。ヒトではなくてけもの、という意味の動物。そのけものは秋のうちに掘った穴の奥、落ち葉を敷きつめた上に丸くなり、ふかふかの毛が生えた自分のお腹に頭をこすりつけながら、まだ浅い眠りをさまよっている。ほとんど夢の中で、風の吹き荒れる音を遠く聞いている。早く春が来ないかな。表はどうなっているんだろう。ちょっとだけ出てみようかな。そう思っているうちに意識が遠のいて、次に目が覚めたときにはすっかり春で、お腹がペコペコに空いている。そういうけもの。

けれどもちろんわたしはけものではなくてヒトなので、春が来なくても毎日きちんと起床して、ご飯を食べたり仕事をしたりしなくちゃいけない。けものではなくてヒトなので、せめてあたたかいものを食べようと思い、最近は週はじめに大鍋にスープをこしらえて、それに毎日火を入れて食べている。生姜をきかせたりミルクを入れたり、スパイスの組み合わせや具材をいろいろ試しているうちに、冬が終わればいいなと思う。

そのようにして、穴の奥でわたしのかわりに眠り続けているけものの寝息を聞きながら、今日も鍋に火を入れる。