十四の秋

秋はさびしいから嫌いだと彼女が言ったとき、私はそれが嘘だとすぐにわかった。もう冬服に変わっていた冴えない制服を少しでもましに見せようと、短く折ったスカートでもたついた腰回りと緩めたネクタイと第二まであけたボタンと背中に背負ったサブバックが滑稽だった私たちは、同じ色のついたリップクリームを塗っていた。細くした眉毛の下、二重まぶたに生えたまつ毛の先を見つめるように、彼女は上手に黄昏を演じて見せる。薄い唇が好きだった。薄くてきれいな形の唇が、わざとらしく持ち上ったり下がったり、歪んだりするのをずっと見つめていたかった。どこかで聞いたことのある軽薄な言葉や流行りの歌詞のような安っぽい憂鬱がそこからこぼれて、それが陳腐であればあるほどにぞくぞくした。「そう思わない?」と訊かれた私は、何の迷いもなく「そうだね」と答える。踏みつけられた枯れ葉が音を立て、足を離すと千切れてばらばらになっている。幾度かそれを繰り返し、私たちはまた明日ねと手を振り合う。

十月十日/気分の振り子

もうかれこれ10ヶ月切っていないのだから当然なんだけれど髪が伸びた。ずっと散髪をしてくれていた妹が去年留学してしまったのと、体調を崩して以来美容院へ足が向かないのが重なって、もう何年も耳下で常に切りそろえていた髪の毛が、気づけば鎖骨のあたりまで伸びている。たしか以前この日記にも書いたけれど私は長い髪が似合わない。加えてアレンジ技術が皆無のため、夏の間はずっとゴム一本ですべての毛をかき集めてひっつめる髪型をしていた。昔は髪を全部あげておでこも出すなんて、顔の形的にも造形的にも合わないから絶対嫌だと思っていたけど、三十になった今、鏡の中に映っているまるで開国直後の志士みたいに勇ましい一本結いの女の姿はそんなに悪くないなと正直思う。ただし下ろすとやっぱりだめ。何度角度を変えて見ても、似合わんなあと溜息が出る。もちろん伸ばしっぱなしでまともな髪型じゃないからというのも大いに影響しているんだろうけれど。

大学時代の友人が子どもを産んだ。すでに何人かの友人は子どもがいるから今更めずらしくもない話ではあるけれど、新しい命の誕生はやっぱり毎回その都度うれしい。臨月に会っていたので、送られてきたまだふやふやの新生児の写真を見て、この子があのときお腹の中にいた子なのかと妙に感慨深い気持ちになった。十月十日を経て世界にやってきた小さな命を思いつつ、十月十日を経てもなお伸び続ける髪の毛を持て余す。

八月の後半は落ち込むことが多かった。何があったわけではなくて、何も進展がない自分に落ち込んでいた。今はだいぶ上昇して、落ち込んでも仕方がないねというところまで戻ってきた。もうそういう性分だと半ばあきらめてはいるけれど、私はほんとうに振り子のように気分が変わる。良いときもあれば悪いときもある。そういう当たり前のことを、悪いときに気がつけない。

良いときもあれば悪いときもある。だから良いときのことをちゃんと思い出せるように、悪いときもあるけれどいつもそこからちゃんと戻ってきたんだということを思い出せるように、写真を撮ったり日記を書いたりしようと思う。

2018夏/自転車図書館阿波踊り

夏がとても好きで、だから暑いのもわりと好きなんだけれど、そんなわたしでもちょっと参ってしまうくらい今年の夏は暑い。暑いというかもはや熱いという感じで、これはたしかに命の危険があるよなというお天気がもうずいぶん続いている。

台風も多くて、1週間ほど中休みのように過ごしやすいときもあったけど、あれだってよく考えたら30度前後の気温だったんだから、連日の猛暑酷暑で気温の快不快を判断するセンサーがみんな完全にバグっているんだと思う。わたしも含め。

 

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7月末の台風が来た日、我が家の朝顔で雨宿りをしにきたお客さん

 

とにかく遠出ができない、遠出どころか都内の移動もままならないので、この夏は読書と自転車の夏だった。

平日は自宅にいても暑くてやりきれないので、図書館へ行くかトレーニングルームで体を動かすかばかりしていた。おかげでメンタルはともかくとしてフィジカルはずっと好調だった。読みたかった本も片っ端から予約をして読んだ。

休日は自転車でちょっと遠くの方まで走った。近くに荒川が流れているのでそこから海まで行ったり、別の日には上流の方、隅田川と荒川が分かれる場所まで行ってみたり。わたしの愛車はMTBなので、強い向かい風があると結構漕ぐのが難儀で、だから海の方に行ったときは少々しんどかった。帰りは追い風だったけど。

自転車に乗るのは気持ちがいい。漕げば漕ぐだけ進むのも楽しい。当たり前のことだけど、その当たり前のことが何度やっても愉快に感じる。

 

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荒川をずっと下って海まで行って、夢の島を横断してそこからお台場へ。お台場では南極観測船『宗谷』が公開されていたので見学。アニメ「宇宙よりも遠い場所」を見ていたのでちょっと興奮。

 

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岩淵水門。荒川はこの水門から、隅田川と分かれていく。大きくて立派な水門。サイクリングロードの名所らしく、たくさんの自転車乗りたちがそこで休憩していた。

 

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一昨日は久しぶりに電車に乗って、実家の方へ。実家は今年引っ越したばかり。その町で開催される阿波踊りを見に行った。阿波踊り、生で見たのははじめてだったけれどとても良かった。正直こんなに面白いとは思わなかったので、これは皆踊りたくなるわけだわと妙に納得した。

まだまだ暑さは続きそうだけど、もう夏のてっぺんは過ぎたんだろうなという感覚。どんなに暑くてしんどくても、やっぱり夏が好きだから、終わりが近づいてくるのは名残惜しい。

夏の思い出

夏になると思い出すのは通学路、プールの後のぼわんとした脳みそとまだ乾いていないのか早くもかいた汗なのかよくわからないけれど濡れている髪の毛、下を向いて歩くと顎から水滴がぽたぽた落ちてアスファルトに濃い染みを作る。顎に来る前の源流はどうやら耳の上こめかみあたりで、だからやっぱり汗なのかも知れなくて、でもそれは地面に落ちたそばから蒸発していき詳細不明。陽炎なのか視界が本当に揺れているのかさだかでないくらい暑い、太陽が露出した二の腕、首筋をじりじり焼いており、黄色い通学帽越しにもその熱をしかと感じる。蝉がみんみんみんみんわしわしわしわし鳴いている。うつむきながら歩いているから帽子の白いゴムがぶらんぶらんする、口にくわえて舐めて吸ってみるとしょっぱい味がした。蟻の行列を見つけて立ち止まり、それの行方を確かめようと後をつけて行ったら不意に背後から大きなチリリン!驚いて歩道に飛びのくと自転車に乗ったお爺さんが何か罵るようにこちらへ叫びながら通り過ぎていくけれど何を言われたのかわからない、わたしは尻もちをついていて、土を払おうと手のひらを見ると蟻が数匹死んでいた。

夏の準備/青梅のにおい

6月に食べたものを6月のうちに更新しようと思っていたのに7月になって早半月が過ぎてしまった。もう今更だしと迷ったけれど、記録しておきたいので書くことにする。

 

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と言いつついきなり5月の写真。恋人が作ってくれたナポリタン。こってこてのケチャップ味。口の周りを真っ赤にしながら氷をたくさん入れた麦茶と一緒に食べた。

 

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今年も漬けた梅酒と梅シロップ。実に串打ちをしないほうが、透明感のある出来になるとインターネットで読んだので、今年は作り方を変えてみた。シロップはすでに味見済み。梅酒はまだもう少し。梅酒を漬ける作業が好きなのは、部屋中が青梅の爽やかな香りで満たされるから。

 

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にんにく醬油も漬けた。去年初めて漬けたので、こちらも二年目。新にんにくは皮がやわらかくて、それを剥くと心優しい哺乳類の爪みたいな、きれいな白い実が出てくる。

 

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桜餅が大好き。こちらは桜餅発祥といわれる長命寺山本やさんの桜餅。大きな桜の葉っぱが三枚もついている。店内の緋毛氈が敷かれた椅子でお茶と一緒に頂いた。お店の二階にはかつて正岡子規が下宿していたこともあるんだとか。

 

先月漬けたこの梅酒を飲めるころには、暑さも落ち着いているんだろうか。

青嵐/筋トレ

梅雨だというのに東京の週間天気予報にはひとつの傘マークもない。ここ数日は夏日が続いていて、まだエアコンこそ入れていないけれど掛布をはぐくらいには夜中まで気温が高い。昨晩からは強風が吹き荒れ、今もまさに南風に吹かれて洗濯物のシャツやズボンがベランダでがちゃがちゃと踊り狂っている。

表はこんなにいい天気だというのに、わたしはどこへも行けない、行きたくない。行けない自分と同じくらい、行きたくないと思っている自分が情けない。自分がこんなに情けなくて、臆病な人間だと知らなかった。いやほんとうは知っていた。30年間ずっと見ないようにしてきた自分の臆病さに、わたしはいま復讐をされているのだ。

せめて身体だけでも健やかでありたいと、少し前から筋トレのようなことをはじめた。ランニングもしている。長く運動不足でいた体では3キロ走るのがまだやっとだけれども、ちょっとずつ距離を伸ばしてタイムを縮められたらいいと思っている。走るのなんて一体何年ぶりだろう。スポーツは好きじゃなかった。何をやってもモノにならなかった。体力は人並程度にあったと思う。でもほとんどのスポーツには体力だけじゃなくて、リズム感や反射神経や、協調性や空間把握力や、そういうセンスが必須だった。純粋に筋力をトレーニングするだけの行為には、そういうセンスが要らないところがいい。ランニングも競争じゃなくて、自分一人で完結するところがいい。身体を鍛えているときには、まるで精神も健やかであるように錯覚できる。

風待月/梅雨の花

気圧の変化に体調が左右される性質なので梅雨はあんまり得意じゃない。それなのに6月という月をそこまで嫌悪していないのは、今の時期に咲く花を好んでいるからなのだと思う。何よりその花々は道端で見かけることが容易いものが多くて、だからちょっと近所を歩くだけでいくつも好きな花を見られることがとてもうれしい。

梅雨の代表的な花と言えば紫陽花で、大胆で存在感がありながらどこか謙虚なたたずまいも持ち合わせた何にも似ていない愛すべき花が、その辺の道を歩いているだけでそこかしこにぽんぽん咲いているなんて、素敵なことだなと毎年思う。手毬のようなふっくらとした容貌の紫陽花もいいけれど、ガクアジサイも可憐でかわいらしい。色は青みがかったやつも赤みがかったやつもどっちも同じくらい好き。

路傍で見かける花と言えば立葵や夾竹桃が咲き始めるのも今の時期で、どちらも色合いの派手な花だから真夏のころ太陽の下でぎらぎら照り返すアスファルトと立ち昇る陽炎の中でまるで白昼夢のようなそれらを眺めるのも乙だけど、今のように雨に濡れてしっとりした色合いになっているのも風情があっていいなと思う。

個人的に縁があるなと勝手に思っているのはザクロの木で、わたしはなぜかどこで暮らしていても、しょっちゅう通る路上に植わったザクロの木にめぐりあう。それだけよく植えられている木というだけかも知れないけれど、勝手に運命を感じている木。花は鮮やかな朱色。果実の毒々しい赤に反して、ものすごく健やかで爽やかな色をしている。ザクロの花を見ると、これから夏がくるんだなと思えてうれしい。

ひとつ残念なのは、今年の梅雨はまだクチナシを見ていないこと。梅雨の花の中ではクチナシが一番好きだ。街路にも結構植わっている花だけど、今住んでいるあたりの徒歩圏内では見かけない。クチナシの花は地味な花だ。同じ季節に咲く花の中ではだんとつに地味な見た目のように思う。でもその見た目からは想像できないような、胸焼けするくらい甘い匂いを周囲に放つ。したたかな花だなぁと思うし、わたしはそのしたたかさにまんまと心を奪われる。雨に濡れるとその匂いはいっそう濃くなる。雨の日にその匂いを肺いっぱいに吸い込んで、途端に肺の中が湿って甘ったるくなるのを感じるのが大好き。ある種の薬物で得られる多幸感は、こんな気持ちなんじゃないかとすら思うくらいに。

6月にしておこうと思っていたこと(お風呂のカビ取り、植木の植え替え、梅酒づくりとニンニク醤油の仕込み)はすべて終えてしまったし、雨が続いて洗濯物が干せなくなることを思うと憂鬱で、そのうえまさに偏頭痛にも悩まされている最中で、さっさと梅雨が明けてくれればいい6月が通り過ぎてくれればいいと思うけれど、思うけれども心の片隅で、もう少しだけこの花々を愉しみたいという気持ちもあって、また今年もこの月に弄ばれているなあと思うのだった。