三社祭/しょっぱさつめたさ

昨日と一昨日の二日間、浅草の三社祭を見学してきた。三社祭、とにかくたくさん神輿が出ている。祭りの間はあの界隈どこを歩いていても必ず神輿にぶつかるし、ぶつからずともお囃子と掛け声がどこの角に立っても聞こえてくる。何度見てもにぎやか、活気と熱気が揺れる神輿とともに浅草一帯をを覆いつくす。

恋人は担ぎ手として今年も駆り出されており、顔も身体も日焼けで真っ赤、肩には痣を作って帰ってきた。わたしは担ぎ手でもないくせにその熱に当たってひどくくたびれてしまい、ひさしぶりに布団に入ってすぐに眠りに落ちた。夢も見ないほどよく眠った。当事者であったなら、あの祭囃子も神輿も群衆も夢に見られたのかもしれない。

 

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一週間前に、同じ浅草で食べたラーメン。シンプルな中華そば。320円。汗をかいた身体に美味しい味付け。

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ゴールデンウィークは特別どこへも行かなかったけれど、時間だけはあったのでらっきょうを漬けた。甘酢と醤油の二種。甘酢の方には唐辛子を入れてピリ辛にしてある。醤油はすこししょっぱ過ぎた。勉強になった。

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わらび。スーパーで見かけて購入。下処理が手間のように感じるけれど、やってしまえば何のことはない。写真は一晩おいたあと、あくが抜けて綺麗な緑色が溶けだしている様。実物はもっと鮮やかな、メロンソーダのような色。最初はシンプルに鰹節とお醤油で、最後は炊き込みご飯にして食べた。

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冷蔵庫が新しいものになり、冷凍室が広くなったのが嬉しくて1リットルのバニラアイスを買った。1リットルのバニラアイスがあるとフロートが家で飲める。今回はアイスコーヒーでやったけど、コーラでやってもいいな。フロートは、氷との境目でしゃりしゃりになったアイスの部分が好き。

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四月の風/春の遺影

四月のうちにもう一度日記を書こうと思っていたのに五月になってしまった。土手に行って、たくさんの花を見たからそのことを書こうと思っていたのに。思っていたのに、すでにわたしの心はすっかり五月の中にある。ほんの数日前の写真が、ずいぶん遠い景色に見える。あんなに強かった四月の風は、もうどこか別のところに飛んで行ってしまったのだ。

新居での生活を整えるためにあれやこれやとしているうちに木々の緑は濃くなり日射しに目を細めるような気候になっていた。ここ数日は半袖を着ていてもちょっと動けば汗ばむくらいで、でもそれが妙に心地良いのは長い冬の間ずっとこの暑さや眩しさに焦がれていたからで、加えていよいよこれから夏が始まっていくんだという期待を孕んでさらに季節は輝きだす。五月、わたしのいちばん好きな月。

 

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だからこれは、2018年春の遺影だ。

引越し/ベッド

はじめてiPhoneからこのブログを書いている。

二年暮らした部屋から明日引っ越す。住民票はもう移してあるし、諸々の手続きも済んでいるのであとは人間と荷物の移動だけ。

引越しに際して、二十年寝ていたベッドを処分した。もともとは子供用の二段ベッドの一段で、わたしは大人になってもずっとそれで眠っていた。大きさも、質感も、色もきしみ具合もわたしにぴったりだったベッド。こわい映画を見て眠れなかった夜、はじめて好きな人とメールをした日、社会人になって毎日へとへとで倒れ込んでいた頃、いつもわたしを休ませてくれた小さな、でもとても頑丈で頼もしかった木のベッド。

今はたくさんの段ボールに囲まれるようにして、部屋の真ん中に布団をしいている。うんと両手を伸ばしても、かたくてつめたい木枠に触れないのが変な感じ。変な感じですこしさびしい。

センチメンタルとは自己憐憫と同義だと思っている。だからこの感傷は、所詮自己憐憫なのだと思う。でも自己憐憫を経ることで思い出を忘れずにいられるならいいんじゃないかと、思えるようになったのはごく最近。


この町も部屋も好きだった。次に住む町も同じように好きになれるといいな。

感謝の気持ちを忘れずに、仲良く楽しく健やかに。

枝垂桜/春うらら

この前の日曜日に浅草伝法院の庭を散策してきた。浅草へはしょっちゅう行っていたけれど伝法院の中に入ったのははじめて。庭と同時に寺宝も公開されていて、どちらもゴールデンウィークまでの期間限定らしい。もったいない。

 

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枝垂桜が満開。樹齢はどのくらいなんだろう。真下に立つとまるで薄紅色の滝壺に落ちてしまったかのような錯覚に陥る。東山魁夷の作品で、この写真とすこし似たアングルの絵があるのを思い出す。でもあの絵は夜の絵だから、桜の木の上に月が浮かんでいるのだ。残念ながら白昼の散策だったので、というかそもそも夜間は公開していないだろうから、月とのコラボレーションを見ることはかなわないけれど、色づいた花弁は青い空にもよく映える。実を言えば昔から、桜の花があまり得意ではない。嫌いなわけではない。美しいと思う。でもその美しさの迫り方が圧倒的すぎるというか、勢いがありすぎるのだ。一斉に開花しているソメイヨシノなんかは特にそうで、見ているとその暴力的な美しさに少なからず疲弊してしまう。花見というとついついそういう群生させられたソメイヨシノばかりが注目されて、他の品種はその陰に押しやられがちなイメージがあるけれど、やっぱりこれも「桜」なんだと思わせられた。ひとところに栽植されたソメイヨシノが奮うそれとはまた違う威圧感。一種の神々しさとでもいうような。花を見つめていたら、その美しさをあらわすのに「燦燦」という言葉が浮かんだ。本来は陽光などに使われる修飾語だから、用途も意味も違えているのかもしれないけれど、それがそのときこの桜を見て感じたことにいちばん近い言葉だった。

 

 

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庭園にあった桜は二本で、それぞれが離れた場所に植えられていて、でも園内のどこにいても、薄紅色の飛沫が目に入るようになっていた。整備されたばかりの庭。池には鯉がたくさん泳いでいた。亀もいるらしいけれど、姿は見えなかった。まだ冬眠中なのかな。ごちゃごちゃとした浅草の一画にあるとは思えない、長閑な景観。雲ひとつない、いい陽気の日。春うらら。

この時期は空気が霞んですべてに靄がかかったようで、まるでずっと夢の中を歩いているような気分になる。

 

 

山菜/去年の梅酒

春の食べ物といえば山菜。ギョウジャニンニク、ふきのとう、ノビル、タラの芽、せり、あさつき、ウドやうるいなんかも、この時期はちょっと大きいスーパーマーケットへ行けば手に入る。だけど陳列棚にパッキングされて置かれたそれらは、ほんのちょっとの量で結構な値段がするものだから、手に取るのをつい躊躇してしまう。山菜といえば、祖母の家の裏の山では春になるとわらびがたくさん採れた。食べることよりも採ることが楽しくて、春休みに滞在していたときは朝な夕な散策に出かけて、ビニール袋いっぱいにわらびを採った。地面からまっすぐ凛々しく生えているくせに、先っぽだけが奇妙に丸まった不思議な山菜。一晩しっかりあく抜きをして、おひたしにして食べるのが定番だった。

祖母は今年中に上京してくる予定で、だからそれにあわせてあの家も処分してしまう。思い出は場所に作られるけど、思い出が根ざすのは場所ではなくて人の中なので、さびしがることはない。わかってはいるけれど、やっぱり少しだけさびしい。こんなエゴイスティックな感傷は、誰に言えるはずもないけれど。

 

 

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すこし前になるけれど、桃の節句に食べた桜餅。これは道明寺。道明寺も長命寺もどちらも好きなので、どちらを買うべきか毎年逡巡してしまう。そしてたいていの場合どちらも買う。写真を撮ったときには長命寺はすでに胃袋の中だった。

 

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この写真は桃の節句よりさらに一週間ほど前のもの。去年漬けた梅酒が良い感じになってきて、ちょこちょこ飲み始めている。梅の実も下処理をしっかりやった甲斐あって、ぷりぷりで美味しい。かるく冷凍して、シャーベットみたいになったのを食べるのも好き。

来月から二人暮らしになるので、今年はもっとたくさん漬けようと思う。

山頭火/悪あがき

ぬるくつよい風が季節の頁を捲って、今日は啓蟄

最近、電子書籍種田山頭火を読んでいる。もともと「草木塔」が好きで、先日偶々kindleで全集を見つけたので購入した。「ぐうたらの呑兵衛」と自ら称すように、大酒呑みでだらしがない印象の彼だけど、物乞いをしながら放浪している間もずっと日記だけはつけていた。でも残っているのは死ぬまでの十年間の分だけ。それ以前のは焼いてしまったらしい。もったいない、読んでみたかった、と思うのはそれが他人事だからだろう。突発的であれ、計画的であれ、焼き払ってしまわなければならない必然性がそのときの彼にはあったんだろうと思う。

 

いつまでもシムプルでありたい、ナイーブでありたい、少くとも、シムプルにナイーブに事物を味わいうるだけの心持を失いたくない。(種田山頭火「夜長ノート」)

 

必然性があると感じてしまうことは悪あがきだなと思う。必然性なんて本当はどんなものにもないような気がしている。気がしているくせに、必然を理由にしないと前に進めないことがある。そうして前に進まなければいけないと思ってしまう。それを面倒くさいなと思うし厄介だなと思う。悪あがきでしかないと知りながらそれをせずにはいられない。面倒くさくて厄介で、なんて愛おしい習性だろう。

 

いつでも死ねる草が咲いたり実ったり(種田山頭火「草木塔」)

 

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五時過ぎの電車/バグ

満員電車を避けたくて、この頃は五時過ぎの電車で出勤している。とは言え五時過ぎでも人は乗っている。空いてはいるけど座れはしない。それでも鞄を肩にかけたまま、つり革につかまってリラックスできるくらいのスペースはじゅうぶんにある。乗っている間はたいていイヤフォンを耳に突っ込んでいる。落語を聞いたり音楽を聞いたり。地下鉄は嫌いだ。

今朝家を出たら雪が降っていたので驚いた。雨の予報も知らなかったのであわてて傘を取りに戻った。まだ暗い空からちらちら雪が落ちてきて、でもそれほど寒くはなくて、妙な感じだった。今思ったけれど、妙な感じがしたのは寒くなかったせいではなくて、ここ最近、わたしが勝手に「もうあとは春になっていくだけだ」と思い込んでいたせいなのかもしれない。もうあとは春になっていくだけだったはずなのに雪が降っていたから、おかしい感じがしたんだと思う。「あれ?バグじゃん」と。

バグではない。当たり前だけど。「バグじゃん」と思ったそれは、あくまでわたしの頭の中と世界とにズレが生じただけで、それは世界の側のバグではない。

世界はわたしの頭の中にあるわけじゃないのに、わたしはわたしの頭の中でしか世界を捉えられない。それは別に悲しむべきことじゃない。それについて悲しむとか喜ぶとか、そういうのは無意味だ。なのにそのことがずっと苦しい。