ランニング/自分が好きな自分

仕事を辞めたり同棲をはじめたり、いろいろと変化のあった年だったけれど、今年いちばんの収穫は何かといえば、ランニングと出会えたことだと思う。

とにかく今年は最初から、自分自身を健康な状態にすること、元のように戻すことに努めていて、精神的な部分はもちろんだけれど、体力づくりもかなり意識して行っていた。健全な精神は健全な身体に宿るというのは真理とまでは思わないけれど、一理あると思っている。だから春ごろから筋トレをして、その一環としてランニングも始めた。

始めたと言っても最初は2キロも走り続けることができなくて、自分の体力のなさに驚いた。筋トレよりもランニングに本格的に力を入れ始めたのは夏の終わりから。筋トレの片手間で3キロ走っていたのからだんだん距離を伸ばして、今では10キロくらいなら平気で走ることができるようになった。10キロ以上はまだ挑戦したことがないから、来年の課題。

体調を崩してしまってから、自分が何もできないこと、かつては難なくできていたような当たり前のことができなくなってしまったこと、そういうことばかりに直面して自尊心がごりごりと削られて、あまり考えても仕方ないとはわかっていても、できることがない分ひとりで考え込む時間ばかり増えてしまい、自己嫌悪と自己憐憫の悪いループから抜け出せなくなっていた。

何もできない、何もできなくなってしまったということは、わたしにとってはものすごくつらかった。これまで生きてきて、たいていのことは特に問題なくこなせるほうだった。少なくとも自分ではそう思っていた。恥ずかしい話だけれど、たいていの物事は、何なら他人より器用にやってのけられる方だと信じて疑わなかった。今まで何かの壁にぶつかるたびに、「他の人にできてわたしにだけできないことなんてそうそうないんだ」「わたしならできるはず」と自分を鼓舞することで生きてきたのに、そうして自分を守り励まし立ち上がらせてくれていた装具が、一瞬で粉々に砕けてしまった。

自分に自信がある自分が好きだった。その自信があるから恐れずチャレンジしたり、戦えたり、転んでも起き上がることができていたのに、その自分がどこにもいなくなってしまった。自己肯定だけでここまできたのに、自己を否定することしかできなくなって、そういう自分が大嫌いでまた否定を繰り返す。わたしなんかよりつらい思いをしている人はたくさんいるのは百も承知で、こんなことくらいで大げさだと言われても本当にそうねと頷くしかないんだけれど、はっきり言って生きているだけでつらかった。自分を好きでいられないなら、そんな自分で生きていく意味なんてないと思った。

2キロ走れなかったとき、最後まで走れるようになりたいと思った。そう思ってから数日で、2キロを立ち止まらず走ることができるようになった。1キロずつ距離を伸ばして、10キロ走り続けられるようになった。タイムもどんどん良くなった。最初は8分/㎞のペースだったのが、今では6分/㎞で走っている。脚の形も変わってきた。走るために必要な筋肉がついて、足首からふくらはぎ、太もものラインが直線ではなくてきれいな曲線を描くようになった。走れるようになっていくこと、数字がそれを記録として提示してくれること、鏡に映る自分の姿が日に日に変わっていくこと、それはすごく自信になった。何もできないわけじゃない、と思わせてくれた。わたしは10キロも走れるし、きっとこれからもっと走れるようになる。

秋からアプリを使って計測をするようになって、今日の時点でランニング総距離は187キロ。来年も月70キロ~80キロくらいを目安に走ることを続けていければいいと思っている。30歳にして、一生続けたい趣味ができたことがとてもうれしい。

とにかく足を動かし続けていれば前には進むし、昨日走れなかった距離でも今日は走れるかもしれないし、変化するためのいちばん着実な方法は習慣だと知った。来年は、また自分が好きな自分で生きていけるわたしになりたい。たとえそれが前とは全然別のわたしでも、前よりずっと好きになってあげられればいいと思っている。