山頭火/悪あがき

ぬるくつよい風が季節の頁を捲って、今日は啓蟄

最近、電子書籍種田山頭火を読んでいる。もともと「草木塔」が好きで、先日偶々kindleで全集を見つけたので購入した。「ぐうたらの呑兵衛」と自ら称すように、大酒呑みでだらしがない印象の彼だけど、物乞いをしながら放浪している間もずっと日記だけはつけていた。でも残っているのは死ぬまでの十年間の分だけ。それ以前のは焼いてしまったらしい。もったいない、読んでみたかった、と思うのはそれが他人事だからだろう。突発的であれ、計画的であれ、焼き払ってしまわなければならない必然性がそのときの彼にはあったんだろうと思う。

 

いつまでもシムプルでありたい、ナイーブでありたい、少くとも、シムプルにナイーブに事物を味わいうるだけの心持を失いたくない。(種田山頭火「夜長ノート」)

 

必然性があると感じてしまうことは悪あがきだなと思う。必然性なんて本当はどんなものにもないような気がしている。気がしているくせに、必然を理由にしないと前に進めないことがある。そうして前に進まなければいけないと思ってしまう。それを面倒くさいなと思うし厄介だなと思う。悪あがきでしかないと知りながらそれをせずにはいられない。面倒くさくて厄介で、なんて愛おしい習性だろう。

 

いつでも死ねる草が咲いたり実ったり(種田山頭火「草木塔」)

 

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