美醜/フェイク

美しいものだけを見ていたいと思っているつもりなのに、心のどこかでは醜いものを見て蔑みたい安心したいと思っているのかもしれない。でも気づいていないふりをしている。

美しいものだけを見たいのにそれができないのは、自分の醜さがそのようにさせているのだということはわかっていて、だからそうではないと思いこみたいのであって、それ自体がもう醜さなのではないか。

この前見た映画の中で「他人の狡さが見えるのは自分にその狡さがあるからだ」というセリフがあって、ああほんとうにその通りだと思った。ほんとうにその通り。わたしは狡くて卑小で、だから他人のそういう部分がとてもよく見えるのだ。そういう自分の醜さに耐えられなくなってほとんど死んでしまいたいような気持ちになることがたまに、というかしょっちゅうあるのだけど、もうそれ自体がフェイクじゃんと思うから、それによって死ぬこともできない。

どんなに醜くて嫌になってもわたしはわたしを見捨てられない。結局のところ、どんなに蔑んでみたってわたしはわたしが一番かわいい。死んでしまいたい気持ちと長生きしたい気持ちは矛盾するはずなのに、その両方を本気でいつも思っている。

美しくありたい、善くありたいと思うほど、それがフェイクのように思えるのは美や善を神聖化しすぎているせいだろう。でも神聖化されていない美や善に、一体どれほどの価値があるんだろうか。